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2004年8月の終わり、遂にアラスカに来ました。2004年は春先からこの場所へ来るために毎週毎週、目標を掲げてはBackpackingに明け暮れていました。本当に呆れるくらい。
場所は アンカレジ。アラスカ随一の町です。到着した時、天気は晴れていました。が、何か見通しが効かない、そんな感じでした。
後でわかりましたが、2004年は春先から記録的に雨が少なく、ことに8月の雨の少なさは有史以来のものであったのです。(毎年、アンカレジ、アラスカの8月は雨が非常に多く、晴れの日が少ない季節なのです)そのため、アラスカの大地は水がなく乾ききっており、実際にフェアバンクス周辺〜ユーコン州にかけてかなり大規模な山火事が相次いでたのです。私、凡人が到着した際、高気圧はアンカレジ北のフェアバンクス辺りに停滞しており、そのこともあって天気は最高によかったのですが、フェアバンクス周辺の火事による煙が高気圧から流れ出す風で運ばれて『晴れているのに見通しが効かない』状況が旅行中終始続いたのです。この火事は超巨大な物だったらしく、その煙ははるか南のニューオーリンズでも捕捉されたくらいのものであったそうです。 |
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アンカレジに到着したその日、レンタカーを借りて翌朝一番でアンカレジを離れました。アンカレジ自体には興味はなかったのです。 |
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アンカレジを少し離れるとそこはまさにWildernessの世界でした。道路こそありますが本当にそれだけの世界。アラスカに到着したその時期、丁度、この場所での紅葉が始まったばかりの時期でした。この場所の紅葉は赤色ではなくて黄色がその中心となる色です。 |
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途中、道路工事とかもあっていて時間は予定より大幅にかかりましたがそれでも先に進みました。どうしても行きたい所があったのです。 |
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煙っていますので絶景の景色も写真にすると冴えませんが、途中の道路は素晴らしい景色の連続でした。これは詳しくは別のコラムで紹介したいと思います。 |
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どんどんアンカレジから北に離れていきます。アラスカではしばしば見かけました、この看板。
”ムースの横断に注意” |
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そして2時間程進むとようやく目的地を示す看板が現れました。目的地はフェアバンクス、じゃなかったタルキートナという場所です。アラスカでアンカレジの北に位置しています。 |
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タルキートナの北西にはマッキンリー山が位置しています。タルキートナはマッキンリー山登山のGate
Cityです。とても小さな小さな村落なのですが、そこにはマッキンリー山へのプロペラ機による観光の一大拠点があります。ここのパイロットは世界でも指折りの腕の良さで吹雪の中でも平気でフライトやってくれるのです。その腕のいいパイロットが『我こそは!』とマッキンリーを目指す山男達をマッキンリー麓の氷河の一角に彼らを連れて行って下ろしてくれます。そして山男はその場所にベースキャンプを張り、マッキンリー山頂を目指すのです。マッキンリー登山にこの村は欠かせません。 |
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これはタルキートナの目抜き通りです。到着した日、残念ながらタルキートナ辺りはとても曇っていました。ここから見えるはずのマッキンリー山を見ることは出来ませんでした。 |
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タルキートナには小さな小屋のように見える建物が24件だけあります。多くが土産物屋さんをやっていて、このタルキートナの建物の殆どは歴史的建築物として国に指定されています。
歴史的にはアラスカのゴールドラッシュの際の船着場として、またアラスカ鉄道建設当時の技術者の拠点として栄えてきた村落です。 |
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彼方此方見ると解りますが |
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この場所はこういう場所です。笑。 |
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今は夏ですが、この極北の大地に人々は一生懸命に猟をしながらここで生活をしてきたはずです。ムース、カリブーはここの人たちの生活の糧であり続けてきたのでしょう。今でも、ムース、カリブーのステーキやらがこの場所のレストランでは当たり前のように振舞われるのです。 |
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温かいこの時期、道端では犬がひなたぼっこしていました。 |
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私が何故この場所にきたのか?
マッキンリーを登るためです!
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すいません。嘘です。そんなことできるわけありませんヨね。所詮、私、凡人ですから。この場所は、あのBackpackの究極の、おそらく人類史上でも最強の鉄人が訪れた場所だからです。
植村直巳
我が心の師匠です。無一文で日本を脱出し、ついには世界で始めてエベレスト山を含め5大陸最高峰の全てに(ソロで)登頂!果てには日本縦断徒歩、手作りイカダでアマゾン川下りをやってのけた稀代の偉人。世界6大陸最高峰登頂を目指し南極大陸最高峰ビンソン・マシフを目標にして、極北で平地探検の究極の世界を自分のものとし、北極点グリーンランドの犬ぞり単独行等で南極目指してあらゆる地球上の環境に自らを順応させていきました。その南極ビンソン・マシフを目指す一環として−60℃の世界に自らをさらそうと、極冬季のマッキンリー山を単独登頂!それを成功させた矢先、マッキンリー下山途中に消息をたったのです。 |
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私は、植村直巳さんの本を読んで心の底から感動してしまいました。自分が今まで畏敬の念を抱いたたった一人の方です。凡人の心の師匠なのです。
その植村直巳さんはこの場所、タルキートナからマッキンリーに出発し帰らぬ人となった訳です。一体何を植村直巳さんは感じたのか?それを回顧するには実際の場所に行くのがいいだろう、何か植村さんの足跡があるはずだ、それを知りたいそう思ったのです。
タルキートナに一軒の小さな博物館がありました。さっそく行ってみました。 |
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入るとマッキンリー山の大きな写真が目に入りました。この真っ白い峰が何人の山男を飲み込んできたことか...
6000m少々のこの山は、山としてはエベレストにははるかに及ばないものの単独でそびえる独立峰としては世界一の落差があります。くわえてアラスカという場所柄、その寒さ、天候の厳しさ故に登頂のきわめて難しい山なのです。山麓には無数の氷河を抱き雪に隠れたクレバスが山男を簡単に飲み込むのです。普通に考えても命綱ザイールなしで一人で登るのは気違い以外のなんでもない、死にに行くようなものでしょう。それを一人でやってしまうところが植村直巳の植村直巳たるところです。彼の著書”青春を山にかけて”の中で彼が別の際、夏季にマッキンリーを登頂した際の一節です。
出発して3時間もたたないうちにマッキンリー南壁もガスに覆われてしまった。それどころか、自分の行く手をさえぎられ、磁石と地図を使わないと前進不能なほどで5m先も見えない。太陽の光が届かないと氷河の上の起伏がわからず、時たま新雪をかぶったクレバスに足を踏み外しては肝を冷やした。
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また、同じ本の別の一節ではこう言っています。
翌8月20日朝4時半、胸に強く圧迫を感じ息苦しさに目が覚めた。昨夜の静寂な夜から一変して猛吹雪に変わっていた。ツェルトが埋まって支柱に立てた旗竿はひん曲がり、雪が胸の上まで覆いかぶさって、私は”埋葬”直前、起きようにも体の自由が利かない。足を曲げようとしても膝を折ることができない。全力を振り絞って体を揺り動かすと空間が出来た。ツェルトの中でモグモグとシュラフ(寝袋)から抜け出し雪をかきわけてようやく雪の外に出た。外は1m先もみえぬ荒れ狂った猛吹雪、雪は一夜にして1m以上も積もった。ゆうべ『たぶん明日は快晴だろう』とタカをくくって雪穴も掘らずにツェルトをかぶって寝たのが失敗のもとだ。吹雪は凄く外に出たとたん体が硬直するほどの低温で、強風はどんどん私の体温を奪う。すぐ横に雪洞を作る作業にかかった。雪に穴を掘るのも、急斜面ならすぐ横穴は掘れるが、ここはゆるやかだから勝手が悪い。悪戦苦闘の末、幅1.5m、縦2m、高さ1mの雪洞を完成したのは正午過ぎ、吹雪の中の数時間に及ぶ大作業だった。雪洞の中では温かく感じられた。私はコッヘルで湯を沸かし、担いできた鮭を切り身にして煮て食べた。穴に入って鮭を食うなんて、まるで熊だ。
真夏のマッキンリー山でさえ、こうなのですから、植村さんの最期となった極冬季のマッキンリーは、いかばかり凄まじい世界だったことでしょうか?それは我々凡人の想像できる世界ではないことだけはハッキリしています。
写真は植村さんが遭難した直後に捜索をした明治大学山岳部後輩がこの博物館に残した遺影。植村直巳、白き峰に燃ゆ、とかかれてました。 |
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そしてこの博物館で個人に関わる内容としては最も詳しく植村直巳さんは紹介されていました。植村直巳ファンとして、このアメリカの小さな村でこういうものを目にして感慨深いものがありました。 |
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さらに何かの雑誌の内容のコピーと思われるものがありました。内容は植村さん遭難直後の日本明治大学山岳部の捜索の一部始終が詳しく書かれていました。
写真にあるように植村さんの写真がのってました。生前に撮ったものなのでしょう。植村さんは極寒の地に自らを順化させるためにエスキモーと一緒に生活をし訓練したことで知られています。植村師匠はエスキモーから得た知識として白熊の毛皮のフードとズボンを愛用していたそうです。写真に写った物はそれなのでしょう。彼はやはり本物です。
この文末はこう結ばれていました。
植村が生存している、という前提のもとに急編成で5200m地点まで、できるだけ早く到達することを目的としていた。しかし、残念ながら植村の姿はなく多量の残地品を発見、彼が5200m地点より上から、何らかの原因で帰ってこなかったと思える状況がハッキリしてきた。 ...... 『植村を必ず必ず連れて帰る』という希望はたたれたが救援隊として山へ入った松田、中西、高野、米山たちの頑張りが、5200mの雪洞を発見、そして植村の足取りのひとつを確認できたことを、せめてもの救いとしたい。
植村さんは”青春を山にかけて”で紹介した上の内容と同じように最期となるこのマッキンリー極冬季登山でも雪洞を掘って冬の寒さを耐えしのいでいた訳です。そして1984年2月13日マッキンリーにて、植村さんがチャーター機に登頂を知らせる交信は次のようなものでした。
(現在位置を教えてください。)
私がいるのはサウスピークからずっとトラバースして...標高...えーあとは...
(18000ですか?19000ですか?どうぞ。)
20000フィート
(標高を教えてください。)
えー私もよくわかりませんが約20000...
(よく聞き取れませんもう一度お願いします。)
20000、20000フィートです、どうぞ。
:
20000、20000、20000フィート。
(植村さん、応答願います。)
:
:
これを最後に植村直己さんは帰らぬ人となったのです。最期の交信内容から考えて植村さんは猛吹雪の中で道を迷っていたのではないかと想像します。 |
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博物館以外にタルキートナの別のところにも行きました。縁起でもないですが、これはタルキートナのお墓の入り口です。 |
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お墓はありませんでしたが、マッキンリー登山者の死亡者リストがありました。殆ど毎年、数人の登山者が亡くなっている事実にちょっと驚きました。それだけ、マッキンリーは厳しい山なのですね。当たり前でしょうが... |
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そして、そのリストの中にありました。
植村直巳さんの名が... |
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あの美しい白い峰はこれまで数え切れない程の人を飲み込んできたのです。それでも山男は登るんですね... 厳しいと余計に彼らを震えたたせるのでしょう。凡人などにはまだまだ理解できない精神世界がそこにはあるのでしょう。 |
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更に別の場所に行きました。これはタルキートナの、とあるモーテルです。ラティチュード62というモーテルです。一泊70ドルくらいの安い、小奇麗なモーテルです。 |
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かなり綺麗に手入れのいき届いたモーテルで泊まってみていいのではないか?と思います。(泊まりはしませんでしたけどね)今回はちょいとここで昼のお食事をしました。 |
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このモーテルはレストランも併設していて、この通りログハウス仕立てでなかなかいい雰囲気です。この写真奥の焦げ茶色の柱の脇に額に入った3枚の写真があるのがわかるでしょうか?ちょっとアップしてみましょうか。 |
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こんな感じです。植村直巳さんはここで準備をしてここからタルキートナのプロペラ飛行機でマッキンリーの登山を開始したのです。生前最期に泊まった場所です。真ん中の白い紙には植村直巳さんの偉人ぶりを英語で紹介してあります。そしてその両脇にプロペラ機で最期の笑顔を見せる植村さんの姿が残っています。とても素敵ないい笑顔なんです。そして、その上のほうには |
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アメリカの自然を紹介する雑誌National Geographicが掲げてありました。植村さんはNational
Geographic社に特集を組まれた初めての日本人です。恐らく、写真は北極点単独行12000キロ当時の写真ではないでしょうか?
National Geographicの表紙に植村さんの生きざまが、そのまま掲載されたわけです。(今、植村さんファンの凡人は、このNational
Geographicをどうにかして入手しようと試行錯誤しています。)写真見てわかりますが、植村直巳さん、白熊毛皮のズボンはいていますね。全く凄い姿です。本当に。 |
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モーテルのマネージャーの方にお話して、植村さんのことを尋ねました。ハッキリとは覚えておられませんでしたが彼が最期の晩、ここの5号室に泊まったということが解りました。マネージャーさんに少々無理言って見せていただきました。全く興味本位で迷惑な話だろうとは思いましたが...せっかくの植村さんの足跡を追い求めての旅ですからねぇ。
んでもって、これがその5号室。当たり前ですが至って普通です。
(余談ですが、マネージャーさんは、この日の日本からのツアー客が予約を直前にキャンセルしてきたのでおこってました。煙でタルキートナからのマッキンリー観光は厳しいと見て代理店担当者がそういってきたのだそうで、勘弁してくれとしきりに言っていました。ま、それでも、ほぼ毎日このLatitude62には日本人の方が泊まりに来るそうで植村さん様さま、といったとこなのかもしれません。) |
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そしてこれが部屋の中です。とてもシンプルな部屋で、ベッド2つ、小さな箪笥、ユニットバス&トイレ、洗面所くらいのものです。部屋に植村さんの遺影などはありませんでしたが、この部屋知る人ぞ知る部屋なのでしょう。ここで植村さんは何を思い、何を考えたのか、今となっては知る由もありませんが、南極ビンソン・マシフを究極の目標として、ここからマッキンリーへ行き寒さに自分を順応させようとしていたことだけは確かです。地球上で南極の厳しい環境に最も近い、似ている、と植村さんは考えたからこそ、この場所で極冬季に孤軍奮闘しようと決意していた筈です。
植村さんの偉業は凄まじいものがありますが、その原動力は一体、何だったのでしょうか?植村さんの本を読んで感じますがそれは究極の劣等感です。この辺り、興味ある方は是非、植村さんの本を読んでみてください。 |
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そしてタルキートナで最後に立ち寄ったのはデナリ国立公園の国有林と登山許可を管理するパーク・レンジャーステーションです。ここが全ての登山者の情報を管理しているはずだからです。 |
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タルキートナ・レンジャーステーションは、まさにマッキンリー登山の登竜門で、全ての登山者がここの門をたたきます。レンジャーのおばさんはとても親切な方でした。植村さんのことを聞いても
『直接は知りませんが...』
と言って申し訳なさそうになさってました。そりゃそうでしょう。日本人のことだけ管理しているわけではなく、日常の仕事として毎日、マッキンリーに挑む方と真剣に打ち合わせをするのがこの方の仕事なのですから。でも、この方、素晴らしい案内をなさってくださいました。 |
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まず、植村直巳さんがマッキンリーでお亡くなりになったと言う事実を告げると、おもむろに、このステーションで管理している
『死亡者リスト』を広げたのです。 |
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『この方かしら?』
おばさんは言いました。わあ、確かにありました。1984年、間違いなくお亡くなりになった年です。 |
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そうして奥の図書室兼会議室に凡人を案内してくださいました。写真はその部屋です。部屋にはマッキンリー登山をするのに必要な全ての情報が凝縮されていました。右手にはマッキンリー南壁(こっちが難しい)、北壁の写真。左手手前には山に関わる各種蔵書。そして正面には写真のように作戦を練るためのホワイトボード、長いテーブルとそれをとり囲む椅子があってテーブルの真ん中にはマッキンリー詳細を示す地図があります。
建物は当時より新しくなってしまったでしょうけど、植村さんもかつてこの場所で登山の話し合いをしたはずです。当時、国立公園法でマッキンリー山は4人以下の人数での登山を禁止していましたので植村さんは門前払いをくらい、登山許可を得られず苦渋を舐めていたことが知られています。ですから、ヨーロッパ大陸マッターホルン、アフリカ大陸キリマンジャロ、南アメリカ大陸アコンカグア、アジア大陸エベレストを登頂し、マッキンリーも不可能でない!とそう力説したのです。しかし、当時のアメリカ国立公園総長の返事は×。登山許可はおりませんでした。が、当時のアラスカ国立公園長の特別の配慮で、書類上は同時期に登山するアメリカ登山隊の一員として登録することで登山許可を得たそうです。植村さんはそのことを本当にラッキーだったと述べています。 |
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地図は実に詳しくマッキンリーの無数の氷河、尾根から、山裾に至るまで手に取るようにかかれたものです。これはマッキンリーに挑む全ての人が作戦会議を開き、National
Park Serviceのレンジャーさんと詳しく予定を話し合い、登山許可を得るためのまさにその場所なのです。本来なら凡人などの立ち入ることはおこがましい本物のプロの世界なのです。 |
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ありがたいことにレンジャーのおばさんは忙しい中、親切にも色々と蔵書を引っ張り出して調べてくださいました。
『1984年辺りのことをちょっと見てみましょうかねぇ?』と |
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アメリカは凄いですね。単なる情報雑誌ではなく、きちんとした学術雑誌を山の世界でも持っているのです。これは登山関連の最高の学術誌AAJ
(American Alpine Journal)です。早速、中を紐ときました。 |
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"I got it!!"
ありました、ありました♪
Naomi Uemuraが1984年に世界で初めて冬季に単独登頂を果たしたことがきちんと記述されているではありませんか!歴史と言うのはこういう形にならない限り誰もが認める形では残らない物でしょうが植村さんの名前は確固として、こうして学術的にも残っていた訳です。 |
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更に自分はレンジャーのおばさんにいってシバラクいろんな蔵書を読ませていただきました。
『どうぞ、色々見ていってください。』
返事はすこぶる親切なものでした。そしてこの部屋でいろんな論文、雑誌を読みあさりました。数時間笑。
色々読みましたが、中でもこのチャールズ・ファラビーさんというNational
Park Serviceの方が編集したこの本、
”Death Daring & Disaster”
は実に素晴らしい内容でした。 |
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この通りです。題して
サムライ戦士の最期
という内容で3ページにわたって当時の詳細が残っていました。植村直巳さん個人についての内容が。驚きました。その詳しい内容に。それにしても、この表題、世界の人に伝わるタイトルだ...そう思いました。 |
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そして数時間、色々楽しんだ後に、このステーションの基本姿勢、山とは何たるか、特にマッキンリーでは何がどう難しいのかを詳しく、まとめたマッキンリー登山者のしおりを購入しました。本来マッキンリー登山をする人だけのためのものなのですけど、そこは再度無理を言って,,, 日本語版はこれ一冊しか残っていませんでした。
これは非常にまじめな内容の冊子で、登山中の高山病、低体温、凍傷等の問題点についてはその初期症状から対応方法に関するまで実に詳しく、医学的にかかれていました。アメリカという国は研究、調査報告書等情報に関する管理のとてもしっかりとした国です。このマッキンリー山登山のしおりは恐らく世界最高の内容だと思います。これをマスターすれば世界の最高峰も自分のものです。遠い将来、凡人も自分のものにしてみるか?笑 |
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とまあ、冗談はさておき。その冊子の内容を少々紹介するとこんな感じです。中でも下線に引かれた内容は特筆すべきものがあります。
単独行には極力反対します。
アラスカ公園長は植村さんに特別にソロ登山のチャンスを与え、それに植村さんが成功した際に飛び上がって喜びをわかちあったそうです。しかし、極冬季ソロ登山許可を再度植村さんに与え、そのことが偉人植村直巳の死に結びつくこととなった時、深い深い悲しみに陥ったと聞きます。
この『登山』という冊子の編者はデナリ国立公園登山レンジャーの方々です。当然、アラスカ公園長も関与して作成したはずです。この下線を引いてでも強調した内容
単独行には極力反対します。
のひとことに当時のアラスカ公園長の深い悲しみが籠もっていると思うのは私だけでしょうか? |
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とまあ、この部屋にはマッキンリーの歴史の中で荒れはてた極地の開拓者であり続けた人の思いが詰まっていました。なんでもない小さなこの部屋は自分にとって実に思い出深い場所となりました。 |
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最後ですが植村さんのお書きになった本を読んでいると植村さんは読者に次のような問いかけを静かに投げかけます。
『あなたは、今、この瞬間に死んだとして、ああ,,,幸せな人生だった、と、そう言えますか?』
人が人として誇りを持って事をなし、輝いていられる時、その人は幸せなのです。
究極の劣等感を持った植村さんの見せる笑顔は人間の生き方そのものの答えである、そう思われてなりません。 |